ジャマイカには中国系の人がたくさんいます。
特にジャマイカ録音音楽の歴史に中国系の残した功績は大きく、1950年代から活躍していたサウンドシステム、トム・ザ・グレイト・セバスチャンのトーマス・ウォン、ビバリーズのレスリー・コング、ソカのカーニバルをジャマイカで始めたことでも有名なバイロン・リー、VPレコードのビンセント・チン。
最近では中国系の血が入ったショーン・ポールやタミー・チンがいます。
今でも日本人(アジア系)のことを 「ミスター・チン」 「ミス・チン」 と呼ぶ人がいますが、元々は中国人のことを指す呼び方でした。
それほど アジア人=中国人 のイメージがジャマイカでは定着しているのです。
「ジャマイカにやってきた人々」第二回は、グリナーの 「Pieces of the Past」 、中国系移民の話を日本語でお届けします。
多彩な文化から: ジャマイカに来た人々
中国人の到着
レベッカ・トーテロ
中国人のジャマイカ移住にはパナマ運河や鉄道に関係があります。
19世紀半ば、多くの中国人がゴールドラッシュの波にのってアメリカのカリフォルニアを目指し、コロンまでの鉄道建設で
必要になっていた労働力を供給するためパナマに向かいました。
母国を出てアメリカやパナマに行くということは、当時の中国人にとって生活水準の向上を意味し、子供まで連れて法律を破るというリスクを負いながら
中国を後にしました。
それは1891年に中国政府が移民を合法的に許可する前のことでした。
1854年7月30日、エプソム号に乗った267名が年季奉公労働者として香港からジャマイカに到着します。
それはパナマからの移民が始まる数ヶ月前のことです。
同年の後半には205人の中国人が黄熱のためパナマを離れ、内195人は「バンパイヤー」、残り10人は「テレサ・ジョーンズ」という船に乗って
ジャマイカにやってきました。
パナマ側は単にジャマイカが近かったこと、代わりにジャマイカ人を労働力として確保するため中国人をジャマイカに送ったのです。
しかし到着した中国人はすでに体調が悪く、すぐキングストンの病院に収容されます。
パナマからやってきた彼らのほとんどはそのまま死に、生き残ったのは50人以下でした。
その中にいたのが、後ダウンタウン・キングストンのPechon Streetで(現在DesnoesやGeddesビルのある辺り)に
卸問屋を開いたロバート・ジャクソン・チンです。
彼がその問屋を始めたことで、多くの同朋があとに続くきっかけとなります。
他にもチャン・シーパーやリン・サムが近くで食料品店を始めました。
彼らはその後、ジャマイカにおける中国系移民の成功を導く存在となったのです。
年季奉公人制度と中国系食品店の隆盛
それから10年後の1860年代、トリニダートと英領ガイアナからも中国系移民が到着します。
彼らはサトウキビ畑で年季奉公人として働いていたのですが、ハリケーンと虫の大発生で仕事がなくなったのです。
そしてさらに約200人の中国人がアメリカ主導の大規模なジャマイカ農場で、ココナッツ、バナナ、砂糖を生産するため3年契約でやってきました。
彼らは契約期間終了後も農作業員としてジャマイカに残ったのですが、新しく解放された元奴隷達は中国人労働者に脅威を感じ、彼らの残留を
歓迎してはいませんでした。
ジャマイカに残った人の中には小さな商店を始める者もいましたが、一週間の売上が8ポンド以下のところがほとんどでした。
しかしその頃には中国人食料品店は物々交換で商いを行ったり、休みなしの営業、顧客の必要に応じた量り売り方式で信頼を獲得し、馴染み客を増やしていました。
米、塩漬けの魚・肉、小麦粉、コーンミールを輸入していたのも彼らで、それらの食品はやがてジャマイカの主食となっていきました。
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