今世界には国内の人口と約同数、260万のジャマイカ人が海外で生活しているといわれています。
彼らはその土地でジャマイカの文化を継承し、根付かせ、広めている存在として今新たに注目されています。
一方で人口の約90%以上が黒人(アフリカ系)といわれるジャマイカにも、たくさんの民族がお互いに影響し合って暮らしていることも事実です。
レゲエの世界でも初期の有名プロデューサーには中国系が多く、バイロン・リーやレスリー・コング、VPのビンセント・チン。
レバノン系では元首相のエドワード・シアガ、インド系ではスーパー・キャットらがいます。
少し前には “ディワーリ ” “クーリー・ダンス” ”ジョンコヌー” などインドをテーマにしたリディムが大流行したので、ジャマイカとインドのつながりに興味を抱いた人も多いと思います。
ちょうどグリナー社の特集記事 「Pieces of the Past」 でわかりやすく移民のことにふれられているので、今日はその文章を日本語でお届けします。
多彩な文化から: ジャマイカに来た人々
インド人の到着
レベッカ・トーテロ
1845年から1921年の間に36,000人のインド人、主にヒンズー教徒がジャマイカにやって来て、その2/3がそのままジャマイカに残り、定住しました。
1830年代の奴隷解放を受けて、ジャマイカ政府は労働力の補充をインドと中国に求めたのです。
インド人労働者の導入はすでにモーリシャス(マダガスカル東部の島。英国連邦領)で成功していたため、ジャマイカでもうまくいくと考えられたのでした。
しかしインド人労働者に支払われる賃金は元奴隷以下で、その身分はジャマイカ社会の底辺に置かれます。
皮肉なことにインドのカースト制度では肌の色の黒い者が肌の色の薄いものより身分が下だったので、インド人はインド人で元奴隷黒人を見下していました。
つまり黒人とインド人の関係は良い状態で始まったとは言いがたいものだったのです。
インド政府は年季奉公人制度で多大な利益を手にすることになります。
奉公人募集事務所はカルカッタ、マドラスに置かれましたが、募集事務員の給料はヨーロッパ支部にいる者より低いものでした。
政府はこの企画を全面的に監督し、奉公人の労働条件、ジャマイカまでの交通、契約後のインド帰国までを担当します。
この企画に応募したインド人のほとんどが契約終了後裕福になり、帰国後のインドではより高い地位につけると期待していたのです。
奉公人プログラムの擁護者にも面会しました。
しかしその擁護者自身インド人ではなく、労働者よりも雇用主の利益を重視する存在で、この企画が労働者に与える苦難の前兆でもありました。
企画に応募した者は行政官とも面会して政府の労働許可証をもらい、契約内容の承諾を求められます。
しかしこの契約書は英語で書かれていた為、応募者は内容も十分理解せず求められるまま所定の場所に拇印を押すこととなりました。
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