定住と帰国
インド人を国に帰すより、このままジャマイカで仕事をさせた方が安上がりだったので、農園主の多くは
インド人の母国送還に反対でした。
農園主は政府にかけあい、インド人のジャマイカ定住と、帰国費用のために徴収していた金額の引き下げを決めます。
最初のころははインド帰国と引き換えに、王室の土地10エーカーから12エーカー、もしくは現金が、定住のために与えられていました。
しかしインド人に与えられる土地はほとんどが山地、もしくは痩せた土地だったので、多くの者が土地よりも現金を選びました。
1877年までに総額32,000ポンドがインド人に与えられます。
しかし1879年に契約終了金制度が休止され、土地の給付を選ばなかった者は自分達で土地を探さなければならなくなりました。
土地の給付制度自体も1897年から1903年の間休止されており、1906年には完全廃止されます。
実際土地の給付は一人当たり12ポンドの損失で、インド人を1人本国送還するのにかかる経費が15ポンド、と土地給付が本国送還と
そう変わらない痛手だったのです。
1899年に本国帰還を求める男性は旅費の半分、女性は1/3を支払わねばならなかったにも関わらず、
インド帰国を求める労働者の数は減りません。
インド人労働者は帰路の毛布代、洋服代まで支払うことが要求されていました。
帰国の問題
その他多くのインド人労働者が契約期間後もジャマイカに残った理由として、ジャマイカ政府がインド人帰国のための船を
定期的に確保していなかったということがあります。
本来船は一定の乗客/積荷で往復運行しなければならなかったのですが、毎回の運行にインド人契約修了者の数が満たなかったのです。
そんなこともあり、ほとんどのばあい船は積荷/乗客過剰の状態で運行され、衛生状態の保たれる、少し余裕のある乗客数では船を出してもらえませんでした。
そしてそんな状態でも、老人と病弱な者が優先して船に乗せられました。
しかし体の不自由な者、労働力とならない者が帰国申請を拒まれ、条件の悪い移民協定に乗っ取ってジャマイカに残らされることは少なくありませんでした。
1914年以降は第一次世界大戦の開戦もあり、船が必要だったので、なお船でのインド人送還が非現実的なものとなります。
加えてインド政府は貧しいまま本国に戻り、死亡率も高く、なかなか生まれ故郷の生活に戻れない労働者の帰還を歓迎してはいなかったのです。
一番最後に年季奉公人としてジャマイカにインド人が到着したのは1914年。
最後に契約期間修了者がインドに帰国したのは1929年です。
法的な送還協定が終了したのは1930年でした。
インド人労働者がジャマイカにやってきた70年間以後、53%がジャマイカに定住。
彼らはジャマイカ行きの船上ですでに結束し、宗教や文化風習を大切にしながら協力し合ってジャマイカ社会を生き延びていました。
1880年代にはパナマ運河や鉄道建設のためジャマイカを離れ、再びジャマイカに戻ってきます。
プランテーションでも課せられた仕事が終わると自分達の畑を耕し、夜は朗読、歌、大麻を吸ったりお酒を飲んで過ごしました。
実際ジャマイカに大麻や複数で回し吸うためのパイプ (chillum) をもたらしたのはインド人で、インドではチラム (chilam) と呼ばれていました。
彼らは週末決まって祈りのための集会や特別行事、結婚式、ディワーリ (ヒンズー教灯明の祭。10月または11月に富の女神に捧げ、5日間にわたって行う
)、イスラム教の祭典ホゼイやイードを催していました。
(参: 同じようにインド人が多く移住したトリニダード・トバゴでは今でも盛大なホゼイが開催されている)
プランテーションを離れてキングストンに移り住んだ者は、インド時代から、またはジャマイカで身につけた技術を生かして仕事を始めます。
彼らは英語も学び始め、宝石商や漁師、理容師、小売商になりました。
しかし都市部、地方部に関わらず、インド人は経済的、または社会的に受け入れられるためクリスチャンになった者もいましたが、大半はインドの伝統・文化を継承しようと懸命に努めました。
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