ジャマイカはアフリカ系子孫が人口の9割以上を占める国ですが、アフリカ人よりも先に労働者としてジャマイカに連れて来られたのが、今回ご紹介するアイルランド人です。
一口にアイルランド系と言っても、民族的に弾圧され、奴隷として連れて来られた初期移民と、その祖先がある程度支配者階級の地位を獲得してから渡ってきた移民とでは、扱いも生活も違っていました。
しかし好む・好まざるに関わらず、多くのジャマイカ黒人が多かれ少なかれアイルランドの血を引いていることはたしかです。
「ジャマイカにやってきた人々」シリーズ第五回も、グリーナーの 「 Pieces of the Past 」 日本語訳でお送りします。
多彩な文化から: ジャマイカにやってきた人々
アイルランド人
レベッカ・トーテロ
ナショナルヒーローでジャマイカ初代総理大臣のアレクサンダー・バスタマンテは、よく 「 自分には半分アイルランド、半分ジャマイカ、10%アラワクの血が流れている 」 と言っていました。
ユーモラスで魅力的、カリスマのある彼は、みんなに “バスタ” と呼ばれ愛されています。
その話のうまさは、まさしくアイルランドの血でしょう。
アイルランドの系譜を持つ著名なジャマイカ人は、なにもバスタだけではありません。
クロード・マッケイやアイランド・レコードの創設者クリス・ブラックウェル、ジャマイカを代表する歴史学者で元西インド大学の副学長フィリップ・シャーロック、作家のジョン・ハーン、馬の調教師であるフィリップ・フィーニーも母親がアイルランドのコーク郡出身です。
バーク、コリンズ、マッケイ、マーフィー、マッデンもアイルランド系によくみられる苗字です。
アイルランドの影響は地名にも見ることができます。
セント・アンドリューのアイリッシュ・タウン、セント・メアリーのキルデア、クロンメル、セント・トーマスのベルファースト、ミドルトンなどがその一部です。
1600年代
アイルランド人がジャマイカに到着したのは、今から350年以上も前。イギリスのオリバー・クロムウェルがジャマイカを獲得した1600年代の半ばになります。
サント・ドミンゴの遠征に失敗したペン、ベナブルズ提督は、手ぶらでクロムウェル卿のところに帰るのを避けるため、ジャマイカに目をつけたのです。
そのときバルバドスにいたイギリス軍(その多くがアイルランド人)を援兵として送り、ガードの薄かったスペイン軍を駆逐するも、新しく獲得したジャマイカを維持するのに人手が不足していました。
そこでイギリスの支配下になっていたバルバドスやセント・ルシア、セント・キッツやモントセラトから、主に若い男性使用人を連れてきたのです。
そしてその多くがアイルランド人でした。
1641年、アイルランドの人口は150万人ほどでした。
しかし1648年の “ドロゲダ包囲” でも知られる戦争でアイルランド反乱軍は鎮圧され、オリバー・クロムウェルの息子ヘンリーがアイルランドにおけるイギリス軍の陸軍少尉に就任。
彼によって何千人ものアイルランド人が、労働力を補うための年季奉公人として西インド諸島に送られることになります。
1648年から’55年の間だけでも、政治犯とされる1万2千人がバルバドスに送られました。
これはまだ新世界で新しい生活を始めるために、アイルランド人が自由意志で来る前のことです。
1652年になると、飢饉や反乱、強制的な国外追放によって、アイルランドの人口は50万人ほどに減少。
1650年代前半は若い男女が「イギリス人/クリスチャンになるのに最適」「西インドの砂糖プランテーションで働くために」と植民地に送られました。
少年・青年は砂糖プランテーションで使用人になり、少女や女性たちはマルーンや黒人女性しかいなかった地方部で慰めに使われました。
1641年から’54年の13年におよぶ戦いで、たくさんのアイルランド人が夫や妻を亡くしたのに加え、
多くの男性や財産がクロムウェルに徴収・没収され、母国には生活の糧がなかったのです。
1655年の3月に「全ての放浪者、アイルランドにいる全ての男女を捕らえろ」という命令が出るまでに、約6,400人のアイルランド人が西インドに向けて旅立ちました。
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