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最初の寄港地


 カソリック、非カソリック、多くのアイルランド人が最初に寄航したのはバルバドスです。 彼らは現場監督の下、2時間の昼食休憩をはさみ、朝6時から夕方6時まで働きました。 着る物はシャツとズロース/ズボン下だけ。 住まいは木の枝やプランテンの葉でできていました。
 1655年、イギリスがジャマイカを支配すると、バルバドスやイギリスから多くのアイルランド人が送られました。 しかし10年以内に多くのアイルランド人が刑期や契約期間を満了し、ジャマイカのプランターや入植者にアイルランド人の名前が並ぶようになります。



最後の移送 1800年代


 約3万人から8万人のアイルランド人が母国から送られたと推定されています。 最後の移送は1841年、リムリックから出たロバート・カー号によって行なわれました。 彼らの到着は、当時のグリーナーでも伝えられています。
「彼らはキングストンに、自分が持っている一番上等な服を着、禁酒のメダルをつけていた」
グリーナーでは1842年のアイルランド人の到着についてもふれています。
「アイルランド人は酒を好み、いつも酔っ払っている。居酒屋から出てくる彼らは、とても放埓で破廉恥。飲酒にふける傾向がある」
アイルランド人は聖人と罪人、混在したイメージで受け取られていたのです。
 しかし他のヨーロッパ系移民は、アイルランド人ほど南国の気候になじめませんでした。 たとえば1830年代半ば、砂糖やコーヒーのプランテーションで働いていた奴隷が自由になり、労働者不足を懸念した政府が1,000人のドイツ人、マデイラやアゾレス諸島、ポルトガルから約200人のポルトガル人を招きましたが、彼らの死亡率は高いものでした。 よってヨーロッパからの移民は、のちに気温が比較的低い高地に居住し、小作人や労働者、コーヒー農園や牧場で職人として働くようになりました。 しかしこれはまだ先の話で、奴隷解放前の生産高を維持するために、砂糖の生産に最も適した低地での労働力が必要とされていました。 したがってヨーロッパの移民には報奨金が出され、ロバート・カー号のような船は“人採り罠”、静かなアイルランドの村に入り、無料の航海、高い給金、生活水準の向上を約束して人をひきつける代行人のように見られていました。 しかしそれでもヨーロッパからの移民で奴隷解放後の労働力の穴を埋めることはできず、政府はマルタ人やアメリカの自由黒人、アジア人に目を向けるようになります。 その後1842年の法律でヨーロッパ移民の居住区はなくなり、高地の植民地化は放棄されました。



現代ジャマイカにおけるアイルランド


 ジャマイカ警察は、ズボンの赤いストライプを見てもわかるように、王立アイルランド警察を手本にしています。 ダブリンで設立されたギネスは、カリブ最大の飲料会社レッド・ストライプ/D&Gを所有。 携帯電話のデジセルも、アイルランドの企業です。 しかしジャマイカとアイルランドの共通点は、人名や地名、会社以外のところにもあります。 共に植民地支配の経験があり、同じ世紀に独立。 アイルランドもジャマイカも、大量移民を経験しています。 共通点はダンスにも見られます。 アフリカ系アメリカ人ダンサーのキャサリン・ダンハムは、マルーンの踊りのフォーメーションとアイルランドのリールが類似していると指摘しています。 教育の分野でもアイルランドとジャマイカの関連性は見られ、それはアイルランド系の牧師や尼僧が何世代にもわたってジャマイカ人を教えているからです。 メロディアスなジャマイカなまりにも、アイルランドの影響が見られます。 しかし一番顕著に見られる “ジャマイカのアイルランド” は、笑いや競馬、精霊、女性、歌を愛するところかもしれません。


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この記事の著者、レベッカ・トーテロの 『 Pieces of the Past 』
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   『 Pieces of the Past:
    A Stroll Down Jamaica's Memory Lane 』


     Rebecca Tortello 著
     Ian Randle、2006年





2007年1月29日 Mighty Mules' Bookstore

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