ユダヤ系移民は1838年の奴隷解放後、奴隷の代わりとなる労働力としてジャマイカにやってきた中国人、インド人とは随分異なる背景を持っています。
イスラエルを追われ、ヨーロッパを追われた人たちが、またもやジャマイカに新天地を求めて、宗教的迫害を理由にやってきました。
彼らの歴史はコロンブス上陸後のジャマイカの歴史と同じくらい古いのです。
「ジャマイカにやってきた人々」第四回も、グリナーの「Pieces of the Past」のユダヤ系移民の話を日本語でお届けします。
多彩な文化から: ジャマイカに来た人々
ユダヤ人の到着
レベッカ・トーテロ
1480年にスペインの宗教裁判が始まりました。
宗教裁判とは、フェルディナンド王とイザベル女王の時代にスペインを一つの宗教でまとめ、国の統一を図ろうと行なわれたものです。
カソリック教徒ではない者、主にユダヤ人とムーア人は異端者とされ、
イスラム教の改宗者をモリスコというように、彼らは俗にマラーノ(スペイン語で言う「豚」「卑しい者」「卑怯者」の意)と呼ばれていました。
誰によって非難されているのかもわからぬまま、一度捕まると法的な協議もなしに、本人が告白するまで心理的/身体的
拷問を受けさせられます。
逮捕された者の財産は没収され、国王によって、後年には異端審問官によって管理されました。
1490年代後半、ポルトガルのマヌエル王1世がユダヤ人はキリスト教に改宗しなければならないということを決めます。
ユダヤ人は一ヶ所に集まり、アムステルダムやハンブルグ、ロンドン、新世界に渡って自分達の信仰を守ろうとしたのです。
1494年にコロンブスが上陸したジャマイカも、ユダヤ人の新天地に選ばれました。
ポルトガル/スペイン系のユダヤ人が初めてジャマイカに到着したのはその40年後、1530年のことでした。
彼らは当時唯一町として機能していたSt. Jago de la Vega(現在のスパニッシュタウン)に落ち着きます。
それから何年か経った後、ユダヤ人は一丸となってスペイン総督に定住の許可を申し出たのです。
定住許可は認められました。
ユダヤ系ジャマイカ人とスパニッシュタウン
ユダヤ系ジャマイカ人にとって、宗教習慣とアイデンティティーの問題は、スペイン統治下のジャマイカでも続きます。
しかし記録によると、当時のユダヤ人は80歳/90歳代まで生きる長寿であったことが記されています。
高名なジャマイカの歴史家エドワード・ロングは、17世紀スパニッシュタウンにいたユダヤ人のことを以下のように書いています。
―― こちらのユダヤ人はとても健康で長寿。
思うに彼らの健康と長寿、生殖力の強さは、強い酒を飲まず、朝方の生活を送り、にんにくと魚、砂糖、チョコレートを好み、モーセの十戒を守りつつ断食をしていることにあるのではないだろうか。
――
ユダヤ人は市場と小売店に加え、1704年、スパニッシュタウンのモンク・ストリートにユダヤ教会 Neveh Shalom Synagogue
も設立。
この教会はスファラディー(スペイン/ポルトガルに住んでいたユダヤ人の子孫)に広く崇拝され、1796年にはヤングストリートにアシュケナジー(イギリス、ドイツ、東欧に住んでいたユダヤ人の子孫)のために
別の教会も建てられました。
(注: ユダヤ人はイスラエルから離散して暮らしている民族ですが、その祖先の出身地別に、アシュケナジーとスファラディーに分けられています。前者は
イディッシュ語と呼ばれる中世ドイツ語とヘブライ語の混ざった言葉を話し、後者は昔スペイン語とヘブライ語の混ざったラディーノ語と呼ばれる
、互いに異なる言葉を話していました。)
この二つの会衆は1844年に統合。
多くの世帯が新しく政治・経済の中心になりつつあったキングストンに引越し始めました。
現在スファラディー教会と隣接の墓地があった場所には、Henriques、De Souza、de Pass、Melhado、Nunesと名前の彫られた墓石がかなり朽ちながらも残っています。
Neveh Shalom協会はジャマイカにあるユダヤ人の遺骨を保存・保管する計画を現在進めています。
1655年、イギリスのジャマイカ征服に伴い、ラビ(ユダヤ教の聖職者)であるベン・イスラエルはクロムウェル護国卿を訪ね、
ユダヤ人が引き続きジャマイカで暮らせるよう許可を求めています。(クロムウェルは「ユダヤ人が資本と商業知識をもたらす」とこの申し出を歓迎)
イギリス植民地においてこのような許可が下りたことは、アムステルダムのような土地からもユダヤ人がジャマイカに大量移住することにつながりました。
すべてのユダヤ系移民は市民権を与えられてイギリス国民になり、中世ヨーロッパで許されていなかった財産所有権が認められるようになったのです。
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