これはミス・ルーことルイーズ・ベネット・コバリーの「バンズ・ア・
キリン(Bans a Killin)」という詩です。パッと見ても英語を使う
のを良しとする風潮に反対する詩だと一目瞭然。このようにミス・
ルーはゆったりとした体と笑顔でコメディエンヌとして人気を博す
一方、その内容、詩には厳しい社会風刺が込められていることでも
有名です。今回ご紹介した詩には「チャーリー」という人名がでて
きますが、彼が実在の人物なのか、あえてイギリス風の名前にしてイギリスそのものを指しているのかはわかりません。
「リンステッド市場」などの歌はカリプソとしても人気のあるフォークソング。
歌い手によって歌詞もアレンジも少しずつ違います。 (”Lord what night, not a bite, What a Saturday night”というサビの部分は共通している。)
そして「あの人らは14世紀から言葉を変えようとしてきた」「あれから500年」というのはジャマイカがスペイン、イギリスに統治されていた期間。
「チョーサー、バーンズ、グリゼル、シェークスピア」はイギリスの有名な作家。
「あんたも本を読むときは気をつけて。もし「H」を飛ばして読んだりしたら、あんただってアウトなんだよ。」というのは
ジャマイカ語は単語の一番最初にくるHを発音しないので、「英語、英語と言っておきながら、ちゃんとイギリス読みしなかったらあんたにジャマイカ語を悪く言う権利はないよ。」という
意味。
このようにミス・ルーは大事なテーマを笑いの種にし、ジャマイカ人の本音を自分の言葉で語った、最初の人であったとも言えます。
ジャマイカは長年イギリスの植民地だったので、当然英語を第一言語としていました。
しかし大多数の黒人は、混血のエリートも含め日常ジャマイカ語(またはジャマイカなまりの英語)を話しています。
イギリスを本国とし、何もかもイギリスを基準にしていたジャマイカでは、イギリス風のものが全て正しく、それ以外は間違っているという偏見があったのです。
それは言葉だけでなく黒い肌、ジャマイカ人的物の考え方、ふるまい、芸術にまで影響色濃く、長年ジャマイカの人たちは二つの価値観の間で葛藤し続けているともいえます。
ミス・ジャマイカは「明るい肌、直毛の髪、白人的顔立ち」の女性が選ばれ、(ヨーロッパ的見地からすれば)原始的なダンス、美術、宗教行事は恥ずべきものとして存在していたのです。
これはもともとある自分の姿、祖先から受け継いだ価値観を否定することであり、肌が白くなく、イギリス人のように英語を喋らず、イギリス人のような考え方をしない自分の存在自体を否定することにつながっていました。
この二つの価値観により、ジャマイカ人は自分を自分として認められず、様々な問題を抱えてきたのです。
そんな中1919年9月7日、キングストンに一人の女の子が生まれました。
お父さんは大工、お母さんは針子だったのですが、お父さんは女の子が小さい頃に亡くなり、お母さん一人の手で育てられることになります。
女の子は成績も優秀で、小さいときから詩を書き始めます。
しかしその子の書く詩はどれもジャマイカ語で書かれていました。
人を喜ばせたり、笑わせたりすることが大好きで、学校では社会福祉の勉強をしていました。
そんな彼女がブリティッシュカウンセルの奨学金を得て、イギリス、ロンドンにいあるローヤル・アカデミー・ドラマティック・アートに入学した時から全ては大きく変化し始めます。
彼女はローヤル・アカデミーに入学した、初めての黒人でした。(ちなみに俳優のアンソニー・ホプキンスもここの卒業生)
卒業後彼女はBBCなどイギリス各地で仕事をし、ジャマイカに戻ってからは母校のExcelsior Collegeで演劇を教えたり、グリナー紙に詩のコーナーを持つようになります。
みんなが普段使うジャマイカ語で書かれたその詩は、読む人の心に直接響くものでした。
その後劇団の仕事も始め、イギリス、アメリカ各地で劇の上演の他ジャマイカ文化についての講演、テレビ出演もするようになった彼女は、1954年ジャマイカに戻り、社会福祉団体についてジャマイカ各地でフォークロアや口頭文化を掘り下げるようになります。
そしてその成果を西インド大学の公開講座で講義するようにもなりました。
イギリス、アメリカにはジャマイカ移民が多く、自分達の言葉で話し、演技する彼女を皆非常に親しみを持って受け止め、
ジャマイカの人たちは「自分の言葉で喋り、詩を読み、演じてもいいんだ」という安心感を得たのです。
彼女の出演する舞台やテレビ番組はどれも大人気で、詩集や朗読のレコードなどもたくさんでました。
そしてその女の子とはミス・ルー、ルイーズ・ベネット・コバリーです。
ゆったりとした体と陽気な笑顔。
そしてジャマイカ風の身のこなし、言葉。皆彼女を愛すると同時に、自分達も認め、愛し始めたのです。
それではなぜミス・ルーがイギリス風のものをよしとする時代に、あえてジャマイカ語で、ジャマイカ文化を題材に演技、詩を書き始めたのでしょうか。
1992年に行われたインタビューで、その核心に触れたものがあるのでここにご紹介します。
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