この本のハイライトでもあるペリーとボブ・マーリーの再会(第5章)はとても印象的だ。
「 ボブを見た時、誰かがあいつを自分の所に来させてるみたいに感じた。
でも俺は、本当に一緒にやりたくなかったんだ。ボブであろうと、誰であろうと。
人の助けなんかいらなかった。俺はイライラしてたし、それを表にも出してたのに、それでもあいつは一緒にやりたいって言った。
それで 『 わかったよ 』 ってあいつを見た時、ボブが助けを必要としてるから、誰かがあいつを俺の所に導いたのがわかった。
『 歌を聞かせてくれ 』 って言うと、『 俺のカップがあふれてる / でもどうしたらいいのか俺にはわからない 』 って歌った。
俺はプロデューサーとして、アーティストが本当に自分の中から生まれているものを歌って、それを聞いていると感じた。
心からの声。これが本物なんだって思った。あいつのカップはあふれてる。でも自分でどうしたらいいのかわからない。
だから助けが必要なんだ。俺は、口には出さなかったけどそんなことを考えてた。
それでボブの歌を聞いてた。
俺は誰の助けもいらなかったし、シンガーはうさんくさくてワルいのばっかりだから関わりたくなかった。
俺がやりたいのはインストだった。
でも俺は暗闇の中にいる人間を見て、その声を聞いて、そいつが言うことをもっと聞きたくなったんだ。
奴のカップはあふれてる。
でもそいつはどうしたらいいのかわからない 」
インストゥルメンタルに自分のビジョンを投影し、歌ものには興味を失っていたペリーの所に現れたボブ・マーリーは、コクソンに失望してスタジオ・ワンを離れ、ダニー・シムズのJADとも失敗し、ウェイラーズとしての活動を休止してアメリカから帰国したばかりだった。
(もちろんアイランドからアルバム「キャッチ・ア・ファイヤー」を出す前)
人生の窮地に立ったボブがペリーに助けを求め、自分の曲を出して欲しいと言って来た時、ペリーは毒を吐きながらもこんなことを思っていたのだ。
その洞察力と感性は、今世間で言われている狂人だとか奇人だとかいうペリーとは全くかけ離れている。
もちろん真実はいろんな形で語られ、この本に書かれていること、ペリーの言葉がすべて事実だとは思わない。
しかしわたしにはとても美しいエピソードに思えた。
その後ペリーとボブ・マーリーは特別な関係を共有していくが、ボブがペリーのことをどう思っていたにしろ ( おそらくペリーよりはボブの方が相手に対するこだわりが少なかったように
想像している )、ペリーは間違いなくボブのことをとても大事にしていた。
ペリーは狡猾なところもあるプロデューサーだっただろうが、つきつめすぎてしまうほどに音楽とジャマイカとジャマイカ人を愛し、献身した。
純粋な魂を持って人やすべてのものに接し、多くの裏切りや人に理解されづらいが故に挫折を味わった。
「 ピープル・ファニー・ボーイ (人はおかしなものだ) 」 とつぶやき、ジャマイカにとことん傷ついた彼が、短期とは言え再び故郷に足を運んでいるのはとても喜ばしい。
純粋であることは、往々にして傷つきやすいということでもある。
リー・ペリーは文字通りジャマイカ音楽史の非常に重要な部分を生き、多くを創造し、かつ今の時代を生きている人だ。
奇人・変人と言われる彼が、本当に世評通りの人なのかはこの本を読んでからもう一度考えてほしい。
わたしはこの本を読んで 「 アーク以降のペリーは聞く気がしないわ 」 と思っていた自分を少し責めた。
『 ピープル・ファニー・ボーイ 』 には、ジャマイカ音楽がどんなに密な環境で生まれていたかの描写や、知恵に満ちたペリーの言葉もふんだんに含まれている。
彼の人生・音楽すべてを受け入れることが、リー・ペリーという人を理解する第一歩だということをこの本は教えてくれた。
そして 「 ピープル・ファニー・ボーイ (人はおかしなものだ) 」 という言葉は ( 曲/本は )ペリーの本音をとても端的に象徴していて少し切ない。
ペリーは今も音楽を通じて自分が獲得した知識と知恵を放ち続け、
その音・姿は静けさに包まれている。
2/2
この本を買う
2008年4月20日 森本幸代