『レゲエ・トレイン』の著者でもある鈴木氏は、信州大学で文化人類学を教えられる先生です。
ダンスホールマガジン『 Strive 』の他、『 bmr 』や『 STUDIO VOICE 』などでも文章を書かれています。
―― エディマンから出ている「シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実
践」が話題ですが、前回執筆された「レゲエ・トレイン」から3年。
何かご自身ジャマイカのことをみつめる視点に変化などはありましたか?
また変化があったとすれば、それはどんな変化でしたか?
まあとくに「ジャマイカ・ウォッチャー」っていうわけじゃ全然ないんだけど……。ところで
『レゲエ・トレイン』はこの4月に増刷分が出まわります。何箇所かの字句を1刷りから直してあ
ります。これまで読んでくれた方々、未来に読んでくれる方々にリスペクト。
たしかに、『レゲエ・トレイン』が刊行されてから、あるいは刊行される前から、求められて
あるいは自分で望んで、レゲエとかジャマイカをネタに人前で話しをしたり人前に文章を晒した
りしてきた。で、好むにしろ好まざるにしろ、日本という空間にいてレゲエについて語ったり書
いたりするということの意味に、ますます意識的にならざるを得なくなってきた。で、日本でレ
ゲエやジャマイカをとりあげるひとつのパターン化した語り口が、どうしても嘘っぽく思えてき
た。それはどんなのかというと、「僕たち日本人は豊かで、ジャマイカの貧しい黒人の暮らしを
自分の体験として理解するなんていうおこがましいことはできないけれど、でも彼らの音楽の素
晴らしさは人類普遍だから僕たちにもわかる」みたいな語り口。だってもう、貧困とか失業とか
ホームレスとか、それから暴力とかっていうリアリティは、日本とかジャマイカとかっていう国
単位の問題じゃなくて、どれも地球全体でひとつながりなはず。自分自身への反省も含めて、
ジャマイカの政治や経済をもっぱらジャマイカの国内問題としてのみ捉えがちだった。ジャマイ
カの新聞に目をとおしていると、ドメスティック・ヴァイオレンスや銃暴力は深刻な問題として
報道される一方で、多国籍企業やIMFや世銀が人びとの生活に与えるプレッシャーはあまり明確
化されて論じられてはいないように思う。そうするとまるでジャマイカ人はもともと本性として
暴力的な気質をもっているみたいな像ができあがってしまいかねない。
暴力ってのは、いろんな形のを含めて、今後いたるところでますます常態化すると思う。レゲ
エはありていにいって暴力的な音楽っていえるかも知れないけど、嘆きや慰めや諧謔がリアルな
暴力を超えようとするかのような瞬間にも満ち溢れている。これはボブ・マーリーが「トレンチ
タウン・ロック」で、音楽に打ちのめされたら痛みなんか感じなくなる、と、考えてみたらすご
く逆説的な表現なんだけれど、そんな風に歌っていたことにも通じているのかもしれない。……
自分がレゲエから感じ取ったその辺のことを、直接に感じてはいない人たちにどう読んでもらう
か、解かってもらうか、っていうところで、いくらでも頭を使わないといけないと思った。だか
ら、ジャマイカのことをみつめる視点が変化したというよりは、どちらかというとこちらの語り
かたの問題なんだろう。
―― 今回「シンコペーション」全体を見てどんなことを感じられましたか?
すでに存在している(と想定される)類いの読者に向けて作ったというよりは、この本が読ま
れることで新たな種類の読者たちが生れていくことを願って作られた、そんな本になっている。
扱われてるのは一概にハイカルチャーでもポピュラーカルチャーでもない。「ラティーノ/カリ
ビアン」を書名に掲げつつ、話題にされてるのは西半球だけにはとどまらず、大西洋や太平洋を
はさんだ対岸のほうまでに及んでいる。執筆陣はみんな、人種的、民族的、文化的、その他いろ
んな意味での「他者」について書いているんだけど、文章っていうのはほんと面白い、あるいは
怖い面がある。なんでかっていうと、書き手が書き手本人といくらかけ離れた人たちについて文
章を書いたとしても、その書き手本人が日ごろからどんなふうな人たちと親密なやり取りをし
て、どんなふうなことを考えて暮らしているか、ということが文章からどうしても伝わってきて
しまうから。
それにしても今回の執筆陣はオールスター。特定の学会とか特定の大学研究室出身者でまと
まったというわけでは全然ないのに、集まってくれた皆さんはお心がひろいお方ばかりで。それ
にしても面白いのは、それぞれの文章にそれぞれの書き手のスタイルが滲み出ていること。レゲ
エだったらワンウェイアルバムっていう例えでいいかな。同じリズムトラックに、それぞれのパ
フォーマーの持ちネタと節回し。まあこれはできることなら、それぞれの書き手が他の所で書い
ているものも探して読んでくださるとすごく楽しめると思います。
ちなみにこの『シンコペーション』は、担当編集者である原島“エディマン”康晴さんがこれ
から続けていくシリーズ「Flash! Forward」の第1弾になる。で「Flash Forward」といえば、
レゲエファンの間では、カウント・オジーとも活動してきたサキソフォーン奏者のセドリック・
イム・ブルックスがスタジオワンから出したアルバムのタイトルとして知られていると思う。で
もこのシリーズ名はとくにそのアルバム・タイトルから取ったものではありませんので、念のた
め。このシリーズ名は原島“エディマン”康晴さんのアイディアですので、彼に訊ねたらその謂
れを教えてくれるかもしれない。
―― 鈴木さんは「シンコペーション」でスーパーキャットや映画「ハーダー・ゼイ・
カム」を題材に「スタイルと他者性」ということについて書かれています。
なぜこのテーマをお選びになったのかお聞かせいただきたいのですが。。。
自分で意識的に選んで書いたのか、それとも、そういった音楽や映画や小説によって、書くよ
うに働きかけられたのか? ……いずれにせよ、すごくディープなもの、「濃い」もの、それら
をひとまずここではスタイルって呼んでるんだけど、そうしたものへの一反応なんだと思う。こ
れは今回の自分の章の最後の段落に書いたことなんだけど、レゲエの詞には、まだまだ言い足り
ない、言いきれないことが山ほど、っていうのがよくあるよね。"My cup is running
over"(ボブ・マーリー)とか、いろんな曲の詞に出てくる "what about the half that's
never been told" とか、"so many things to say right now"(アンソニーB)とか、ブ
ジュ・バントン「Untold Stories」とか。(最近思ったのだけれど、これは今回の共編者の1人
杉浦勉さんによる章「わたしたちのなかにある小さきひそやかな声」で触れられている、リゴベ
ルタ・メンチュウの「秘密」にも通じるのかも知れない。)さらに、言葉に詰まってかその後に
チャントが続くこともある。ブジュでいえば「Mother's Cry」とか。
Mighty Mules' Bookstore では『レゲエ・トレイン』を大きく取り上げてくれていて大感謝
なのだけれど、その紹介文の中に、『レゲエ・トレイン』は「これを伝えたい」「伝えなけれ
ば」という思いに駆られて書かれたのだろう、とあるよね。これは自覚してなかったけどほんと
にそうだったかもしれない。で今回もやっぱりそういう感じが強い。でもこういうのは自分に課
せられた使命であるかのように背負い込んじゃうとまた周りにとってはきついものになっちゃう
し、それはそれでひとつの権威を志向するものにもなってしまう。
―― まだ本を読まれていない読者のために、鈴木さんの書かれた内容を簡単に紹介し
ていただけると。。。
今回のはジャマイカ文化論とかカリブ海文化論とかいうような地域文化論には収まらないし、
誰もそう見てはくれないだろうもの。ひとつには、巷で何かと推奨される「個性」の発揮ってい
うのはいったい誰のためのものとして言われてるのか、っていうことを考えるほんのきっかけ。
その話しのとっかかりにレゲエDJ間のスタイルの競い合いなんかを持ってきている。よくいわれ
てるけど、個性って伸ばすように駆り立てられる類いのものじゃないよね。でもかといって今回
の文章は、レゲエDJがみせるスタイルを、そういう学校教育的な意味での個性の対極として捉え
ようとしてるわけでもない。むしろその両者をこの同じ時代のものとして並置してみよう、とい
う。これでいくと、ナンバーワンよりオンリーワンっていうSMAPの例の歌の詞につながっても
くるけど、でも自分は、「おれはナンバーワン」をくり返すレゲエDJのほうが好き。これこそま
さに、「どんなことをいうか」よりは「どんな位置からそれをいうか」の問題。
誰かのスタイルにすごく魅せられたとき、レゲエDJができる人間だったら自らDJするだろう
し、人によってはダンサーやセレクターとして表現するだろうし、この自分のように文字言語で
表現しようとするかもしれない。さらにそれは音楽とかダンスとか文章とかの、枠づけられた表
現に限られるんじゃなくて、日ごろ人と接するときの、身ぶりとか言葉とかも含んでくる。どの
行為も、先行するものを“ヴァージョニング”してるという点では共通してる。これは翻訳する
行為とも呼べる。何々語を何々語に対応させることだけが翻訳だっていう考えは捨てないといけ
ない。そして、すぐれたスタイルはすぐれたスタイルを呼ぶ(理想的には!)。まあ、あんまり
スタイルばっかりを言ってて、スタイル・カウンシル(「スタイル評議会」)って揶揄されない
ようにはしないと……。
あとこの際せっかくだからちょっとマニアックな補足もしとくけど、最初のとっかかりにして
いるマイティ・スパロウの曲「メモリーズ」中には、Egbert Moore、つまり名カリプソニアン
のロード・ビギナーの本名も歌い込まれているのに、後になって気づいた。
―― 今回の本では編者としてお名前ものっています。
ジャマイカ、カリブ、ラテンの文化がどのようにつながっているのかを簡単に説明し
ていただけるといわゆるレゲエファン、ジャマイカ好きにもわかりやすいと思うので
すが。。。
やっぱり、西半球は西半球として、植民地化や黒人奴隷の強制労働や、ヨーロッパとアジアか
らの移民流入や、植民地からの国家独立、USAの覇権拡大といったような歴史的経験を共有して
いる地域だってこと。英語圏だスペイン語圏だフランス語圏だオランダ語圏だ云々、っていうの
はけっきょくコロニアリズムによってもたらされた分断。ジャマイカは英語圏だから、レゲエ
だってある種の英語帝国主義あるいは英米文化中心主義にのって世界に伝わった、という面が確
実にある。そのため西半球における他言語圏の文化とのそもそものつながりが見えにくくされて
いるように思う。
それからこれは「つながっている」よりは「異なっている」ほうの話しなんですが……今回の
編者の1人である東琢磨さんと最近よく話題にするのは、レゲエをはじめカリブ海英語圏の音楽
と比べて、ラテンアメリカの音楽やラティーノの音楽のほうは、突出したアーティストの「実験
的」で「進歩的(プログレッシヴ)」(東さんはこの言葉を侮蔑表現にとっているかもしれない
が、こちらにはそんなつもりはありません)な試みに焦点が当てられることが多い、というか、
そういった試みに焦点を当てることで音楽批評が成立する、ということ。ジャマイカのレゲエで
「実験的」として語られてきた音楽表現って、ダブ・マスターのキング・タビーより後にどれく
らいあっただろうか? もちろんスレンテンや、マッドハウスのデイヴ・ケリーの仕事は、じゅ
うぶんに実験的なものといえるはずだが、それらが実験的なものとして語られる文脈があるのか
いというものが、どういうところから来ているのかはすごく気になる。ジャマイカのレゲエは、
こういってよければ、互いに似かよったものがどおっと、塊のようにして出る。よく馴れた耳が
注意して聴いていけば、それらの中の違いとかキャラ立ちっていうのはほんと面白いんだけど、
しかし誰々の試みが「実験的」なものとして語られることってあまりない。で、東さんとの議論
の一応の同意点っていうのは、ジャマイカのとくにいまのダンスホールレゲエの生産システムっ
ていうのは、ひょっとしたらある意味でJポップとすごく似てるんじゃないか、というもの。昔
と比べればいろんなプロデューサーやスタジオが参入してきてるけど、パフォーマー(シンガー
やDJ)が音楽生産過程の全般をコントロールしてるかっていうとやっぱり違う。まあこちらの話
しは追々考えていくとして。
―― 最後に日本のレゲエファン、ジャマイカ好きに一言。
どんな歴史がいまの自分を形づくったのかを自分でわかってれば、「おれを誰だと思ってん
だ?」なんて脅しながら相手に訊ねる必要はそもそもない――これもボブ・マーリーのある曲の
詞から。
2003年4月14日
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